老いを再定義する。【最終回】

「人生で一番大切な日は生まれた日と生まれた理由がわかった日」(マーク・トゥエイン)

江戸社会が現代社会より一足早く高齢化に直面し、誰もが安心して老いることができ、かつ老いることが励みになるよう様々な対策が講じられていたことを紹介してきた。江戸を代表する作家・井原西鶴が「若き時、心を砕き身を働き、老いの楽しみ早く知るべし」と人生訓を記しているように江戸人にとっては「老いの楽しみ」が人生の目標となっていた。例えば、老年期を表現する場合にも「老後」などという後ろ向きの漢語は使わず、「老入」(おいれ)という言葉が一般的だったということからも、江戸社会がいかに「老い」を楽しみにしていたかが、うかがい知れる。

確かに現役引退後の老年期を表現する際に使われる「老後」という言葉は「老後=老いの後=人生の終末」よりも「老入=老いに入る=新しい人生の入口」のほうが意味合いとして正確である。そして何よりも人生に対して前向きである。江戸社会において「老い」とは招かれざる「人生の終末」ではなく、歓迎されるべき「新しい人生」であったので、じっくり「老い」を楽しみたい武士たちの隠居年齢はどんどん低下していった。彼らが隠居した後、「新しい人生」をどう楽しんだか。そこに「老い」を再定義するヒントが隠されている。

●大名たちの「老い」の過ごし方
大名たちは、江戸後期に平均年齢40歳代半ばで隠居した。その大半が江戸暮らしを選択し、いわゆる「ご老公」として文化活動に励んだ。儒者・書道家・歌人・茶人として名高いご老公や蘭学を奨励したご老公、膨大な歴史書や貴重な随筆を残したご老公など、その活動分野は幅広い。また柳沢吉保が設計した六義園は日本を代表する庭園となり、岡山の池田家の蒐集品はそのまま美術館に、そして尾張徳川家の厖大な書籍は図書館となるなど、ご老公の力によるものは枚挙にいとまがない。我々が日本文化に触れることができるのは、ご老公が余生を「文化継承」に捧げてくれたおかげなのだ。

●幕臣たちの「老い」の過ごし方
幕臣をつとめた旗本や御家人は平均年齢50歳代前半で隠居した。彼らは隠居後、隠居料を給付されながら跡取り世帯と同居し、日記をはじめ人生訓や地史、藩史から民俗、怪談・伝説、仏教説話に関する著作を書き残し、後世に伝えようとした。
一方、隠居した武士の妻(後家も含む)は正月や七夕などの年中行事の準備と来客の接待を取り仕切った。暮らしの知恵を次世代に継承することは彼女たちの大事な役割だったので、準備には必ず孫を伴った。
また彼女たちの持つ血縁・地縁・人脈や情報網が地域から頼られ、武家奉公の口利き、養子縁組の縁結び、さらに寺子屋の師匠を務め、俳諧や和歌を全国の仲間と交換するなど積極的に活動していた。
江戸時代後期に、隠居女性の行動範囲が拡大したのは、江戸時代に「お伊勢参り」が大流行し、女性にも外出外泊の機会が増加していたからだ。旅日記の分析によれば年齢別で50歳代が最も多く、60代も少なくなかったという。
現代と江戸時代の高齢者が「内向的な男性、社交的な女性」と同じ構図であることがわかる。決定的に異なるのは現代人の過ごし方が、私的で自己完結型あるのに対し、江戸人の過ごし方が、自身の経験や上の世代から継承したものを次の世代に残そうとする「世代継承性」にあることではないだろうか。

●商人たちの「老い」の過ごし方
一方、裕福な商人たちも早くに後継者に家督を譲り、隠居料をもらいながら若隠居した。若隠居した主な著名人を列挙すると
歌川広重 火消同心の長男、26歳で家督を譲って隠居、浮世絵の道に。
井原西鶴 大阪町人の息子、34歳で剃髪、僧形で隠居、創作活動に。
松尾芭蕉 町名主の秘書から36歳で隠居、芭蕉庵に入って俳諧の世界へ。
伊能忠敬 家督を長男に譲り53歳で隠居、日本地図づくりの旅へ。
浮世絵、文学、俳句など我が国を代表する江戸文化は若隠居の道楽によって生み出されたといっていい。中でも松尾芭蕉は古典に基づく王朝文化の厳格なルールを打破し、日常を平易な言葉で表現。文学をすべての人に開放した。「すべてを捨てて人生の豊かさ・楽しさを見出す」という生き様は、その後の日本人の美意識決定づけ、さらに庶民の精神形成に重大な影響を与えた。それは「来世よりも現世を謳歌する」という楽観主義と、「お上の世話にはならずに、自分のことは自分で決める」という自立心である。

●庶民の「老い」の過ごし方
裕福な武士や商人たちは「老い」という新しい人生を楽しむために「隠居」という道を選べたが、隠居など望むべくもない貧しい庶民は「老い」をどう過ごしたのだろうか。
彼らは基本的に生涯現役であったが、年齢を重ねるにつれ地域社会において村落内の祭祀を行う「長老衆」あるいは「宮座」という重要な役回りを任されるようになる。「老い」てこの資格を得ることは彼らにとって大変な名誉であり、生き甲斐でもあった。
民俗学者の柳田國男は「日本人の生活の根底にはハレとケという世界観がある」と指摘した。辛くて単純な日常生活「ケ」がずっと続くと次第に気(ケ)が枯れて「ケガレ」る。「ケガレ」からは「ハレ」の祭祀を通じてのみ回復できる。この繰り返しが日常生活で「ハレ」がなければこの世は成り立たない。またその役割は、正月や五節供、花見、盆、祭り、月見などで一年を通して忙しく、個人の立場を離れなければ到底勤まるものではなかったので、「長老衆」は村民から尊敬の眼差しでみられ、その生き様は村民の手本となった。

●「老い」過ごし方に共通すること
隠居するためには、現役引退とは異なり「今までの人生を捨て、後継者に家督を譲り、新しい人生をはじめる」つまり「自己破壊→再構築→再生」という過程が必要だ。
「長老衆」という村落内の役回りにしても「自分の生活や立場を離れて、後継者に家督を譲り、村の祭祀を執り行う」つまり「自己破壊→再構築→再生」という過程を踏まえなくてはならない。
また庶民が最も楽しみにしていた「ハレ」、その集大成ともいえるのが江戸時代に大流行した「伊勢参り」であるが、当時の「伊勢参り」は行倒れを覚悟しなければならず「生活を清算・整理してから出発する」という過程が必要であった。首尾よく大願成就し、「伊勢参り」を果たすことができれば、心が浄化・再生され、1日1日をより大切に生きていけるようになる。ここにも「自己破壊→再構築→再生」という過程が見てとれるのだ。
どうやら「老い」という新しい人生を楽しむためには、自分というものを捨てなくてはならないようだ。

●「老い」を再定義する
少なくとも江戸時代において「老い」とは「老化」つまり「年をとって心身が衰える」と同義ではなく、新しい人生を意味した。そこで自己破壊できた人のみが、新しい人生を楽しむ資格を得ることができたのである。以上を踏まえて「老い」を再定義すると
「老いとは、培ったものを次世代に継承するために、自己を破壊することからはじまる新しい人生である」
となる。「培ったもの」は財産や仕事・地位に限らない。先人から受け継いだ知恵や培った技術あるいは日本人としての価値観もまた継承していかなくてはならない資産である。
自分が受け継いだもの、あるいは培ったものを次世代に譲れない者に「老い」る価値はなく、「老い」を楽しむ資格もない。自分は「次世代に継承するために」生まれたと理解できた者のみが「老い」という新しい人生を楽しむことが許される。江戸社会は我々にそう問いかけている気がしてならない。

参考文献
氏家幹人『殿様と鼠小僧』『江戸藩邸物語―戦場から街角へ』
柳谷慶子『江戸時代の老いと看取り』
立川昭二『江戸老いの文化』
柳田國男『明治大正史 世相篇』